phase:5
「獅子王の憂欝」




どれだけの時間が経ったのだろう?
 既に一日が過ぎたのか? それとも泡沫(うたかた)のひと時なのか。
 時間感覚を喪失したベアトリーチェはゼノビアを抱きしめたまま、ただ無力感と喪失感と絶望感に打ちひしがれていた。
 もうどうでも良くなっていた。
 自分が欲しいのは僅かな安息だけ。
 それすら脅かされようとしている。
 どうすればいい? どうすれば……
「どうしました!? 開けてください! 団長!」
 だから、切羽詰った団員の声に気付くのに、かなりの時間を要した。
 はっ、そうだ、私は4竜将にして、薔薇騎士団の団長、ベアトリーチェ・レ・ランカスターなのだ。
 気を確かに持て。
 全ての可能性が閉ざされたわけではない。
 生きている限りチャンスはめぐってくる。
 そう心に決めたから、屈辱の日々を生き抜くことが出来たのではないか?
 シュレイダーも所詮は人。神ではない。
 どこかに弱点があるはずだ。
 そう考え直すと少し気が楽になった。まずは状況を整理し、冷静に分析しなければならない。
 ベアトリーチェは鉄の意志で何とか平静を装うと、努めて声音に気を払った。
「心配ないわ。今、ドアのロックを開けるわよ」
 心配だらけだが、場を収めるにはこう言うしかない。
 ベアトリーチェが軽く念じると、離れたところにあったドアの施錠が解除された。この程度のサイコキネシス(念動力)は、食事の片手間でもできる。
 わっと雪崩れ込む団員たち。
「ベアトリーチェ様……あ、陛下!」
 顔色に緊張が走る団員に、
「陛下は此度の戦で酷くお疲れになっている。先ほども陛下のお悩みを相談されていたところよ」
 ベアトリーチェは機制を制して、団員が何か口をはさむ前に状況を支配する。
「すぐに就寝の準備を整えなさい。宮廷医師と看護士の手配も忘れず」
「は、はっ!」
 慌てて駆け出す団員達。
 担架を用意すると、意識を失ったゼノビアを丁重に移し替え、運び出していく。
 よし、それでいい。
 ほっと一息をつくベアトリーチェを見透かしたかのように、
「ねえ、ベア」
 絶妙なタイミングで問い詰める声。
 艶っぽい声だが、やや舌ったらずで幼さも感じさせる。
 ベアトリーチェは思わずぎくりとしそうになったが、おくびにも出さず、余裕を持って背後を振り返った。
 そこには12、3歳ぐらいの黒髪の美少女が立っていた。ピンと尖った耳が彼女が少数人種のエルフであることを物語っている。ロングヘアの両端をツインテールに結び、幼い外見には大胆すぎる露出度のゴシックパンクな服装でまとめていた。服装のところどころに見られるフリルとリボンが愛らしいが、容姿以上に大人びた印象も受ける。不思議な少女だ。
 ハリエット・デュ・バレンタイン。エルフである彼女は貴族出身ではない。ミドルネームはナイトの称号をもらってから得たものだ。
 彼女こそ、薔薇騎士団の副団長にして、薔薇騎士団の実質的な作戦隊長である。
 ベアトリーチェは彼女に信頼を置き、彼女もまたベアトリーチェのために忠を尽くしていた。
「一体何があったの? 先ほどドラコニアエンジン音が聞こえたわ」
 そういう彼女の頭頂部にはにょっきりと黒い猫の耳が生えている。クリクリと左右に動いて大変愛らしい。
 なのに、やけに大人びた雰囲気の口調がギャップを誘い、彼女の魅力を際立たせていた。
 彼女は士官学校時代で次席の座を争ったライバル。仲間としては頼もしいが、敵としては油断できない相手であった。
 ちなみに首席は言うまでもなくフレデリックである。
「そうね、あなたには真実を話したほうがいいかもしれない」
 ベアトリーチェはそう言うと殊更深刻そうな顔をしてみせた。
 この場合、彼女に嘘を貫き通すのは至難の業だ。ある程度真実を織り交ぜた餌をまいて鼻を明かすべきだと考えたのだ。
 ベアトリーチェの表情に柳眉をひそめるハリエット。ただ事ではないと感じたらしい。
「実は賊が入ったわ」
「……! うそっ!?」
 ハリエットは他の団員を憚って小声で驚きを表わす。
「なんとか退けたけど、取り逃がしてしまった。ゼノビア様はショックで意識を失ってしまったわ」
「なんで、自分ひとりで対処しようとしたの!? 集団対処がセオリーじゃない! 危機管理がなっていないわ……まったく、あなたらしくもない!」
 ハリエットは小声だがベアトリーチェの非を責める。
「状況がそれを許さなかったの。一瞬、陛下を人質に取られかけた。助けを呼べなかったのよ……私の失態だわ」
 ベアトリーチェは自責の念で表情を暗くする。我ながら天晴れな演技だ。
 ハリエットはすっかり同情の表情を浮かべている。
「まあ、過ぎたことだわ。陛下は無事なんだから……陛下次第だけど、引責問題には発展しないと思うわ。たぶん」
「……ありがとう」
「しかしどうするの? 事が知れ渡れば、我々薔薇騎士団の存在意義が危ぶまれるわ。元々、私達の存在を疎ましく思っている閣僚や議員は多いのよ?」
 ハリエットの言うことはもっともだった。ゼノビアに取り入って権益を握りたいと考える輩は多い。そういう者たちにとって、薔薇騎士団は目の上の瘤に等しかった。
 何か失態をしでかせば、即解体を迫ってくるだろう。
「情報統制はあなたに一任するわ。私は内通者の存在を調べてみる」
 ベアトリーチェは苦渋の決断をするしかなかった。
「げっ……身内を疑うの?」
「そうとしか考えられない。いくら賊が優秀とはいえ、我々の本陣まで単独で強襲してくるとは思えないわ。こちらの警戒網を知り尽くし、かつ、ある一定時間、警戒を無力化させないと、どこかで必ず発見されるはず」
「となると、ある程度守備隊を自由に出来る権力のある人間を味方に引き入れないと無理でしょうね」
 ハリエットは事の重大さに気が滅入ったような表情になる。
「考えたくないけど……該当人物が限られてくるわね」
「調査を進めれば、今日の警備体制で異常がある部分が洗い出せるはず。そこに所属する隊長クラスを当たってみる必要があるわね」
 そこまでベアトリーチェは言ってはっとした。
 まさか……
 考えたくないことだが、思い当たる節がありすぎる。
「ハティ、今日のことはくれぐれも、ね」
 ベアトリーチェはハリエットに念を押すと、急ぎ足である場所を目指した。



 ベアトリーチェはクロヴィスの執務室の前に辿りつくと、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
「将軍、失礼します」
 ベアトリーチェはノックをすると、中の返事を待たずに執務室に足を踏み入れた。
 そして油断なく素早く目配せする。
 いた。
 そこにはベアトリーチェに背を向けて、故人である始皇帝ブッフバルトと7英雄の一人であるテオドールが描かれた肖像画を見入るクロヴィスの姿があった。。
 彼が最も信頼し数々の修羅場を潜り抜けてきた戦友たちである。
「……来たか」
 クロヴィスの硬い声音にベアトリーチェは戦慄した。
 最悪の予想が当たってしまったのだ。
 思わず膝の力が抜けそうになる。
(なんてこと……)
 一番頼りにしていた人物が、シュレイダーと手を組んでいた。これは致命的以外の何物でもない。
 つまるところ、自分はシュレイダーの手のひらの上で踊らされていたわけだ。何と滑稽な。
 もう笑うしかないではないか!
「何故ですか……?」
 ベアトリーチェは乾いた喉から何とか声を絞り出す。
「何故……だと?」
 クロヴィスは肖像画から視線をそらさず、ふっと自嘲気味に吐き捨てた。
「とことん愚かだな、お前は。だからお前には四竜将を任せたくなかったのだ」
「な、なんですって……」
 ベアトリーチェはクロヴィスの言葉に動揺した。
「お前を3次試験で落とすように示唆したのは私だ。フレデリックに非があるわけではない。まあ、順当に最終試験に残ったとしても、お前にフレデリックは破れんがな」
 クロヴィスはそう言うと初めてベアトリーチェに振り返った。
 その表情は堅く険しい。
「しかしお前は試験結果に満足せず、フレデリックを逆恨みして謀殺しようとした。違うか?」
「それは……」
 図星。
 しかしフレデリックを殺すことは出来なかった。
 寸前で自分の理性が勝ったからだ。
 いや、遅発魔法に狂いが生じて、フレデリックの父であるテオドールがフレデリックの手にかかって死んだ。
 私は紛れもなく人殺しなのだ……
「馬鹿な女だ……己の自己満足のために、かけがいのない命を奪った。帝国の上層部に食い込むためには、やむを得ない犠牲だと考えているのかね?」
 言い訳は出来なかった。全て事実なのだから。
 クロヴィスは完全にベアトリーチェに向き直ると、ゆっくりと歩き始めた。
「お前が独白したおかげで過去はある程度把握できた。確かに筆舌しがたい凄惨な人生だったようだな」
 クロヴィスの言葉には同情の色がにじんでいた。
「だから、人生をやり直そうと考えた。帝国の力を使って世界を作り変えようとした。違うか?」
「…………」
 クロヴィスの指摘はいちいち的確だった。もはや抗うすべがないほどに。
「だんまりか。まあ、いい」
 クロヴィスはそう言うとベアトリーチェの目の前で立ち止まった。
「結論から言おう。お前にはこの世を変えることなど出来ん。この世の一部である帝国を自由にすることさえもだ!」
「……っ!」
 クロヴィスの凛とした宣告に、ベアトリーチェは唇をかみ締めた。
「確かにお前の才能はすばらしい。フレデリックに勝るとも劣らない……しかし、どうしたことだ? こんな薬に頼らねばならぬほどに、その精神(こころ)は脆い」
 そういうとクロヴィスは懐から、ベアトリーチェが服用している抗うつ剤を取り出した。
 ベアトリーチェは思わずうっと唸ってしまう。
「そ、それは……」
「欲しいか? こんな劇薬など……」
 そう言うとクロヴィスは薬の中身を盛大にぶちまけた。
「お前の心を殺すだけだ」
 クロヴィスはカランと空になった瓶を放り投げる。
「ああ、なんてこと!」
 ベアトリーチェは思わず薬を拾おうとしゃがみ込んでしまった。
 この薬がなければ駄目なんだ。
 自分は愚かで、無能で、救いようのない雌豚だ。
 そんなのは分かっている。
 分かっているからこそ、ひと時でもその負の感情から開放されたかった。
 この薬がなければ気が狂いそうになる。
 自分が自分でなくなってしまう……
「いいか、ベア。それがお前の真の姿だ。床にぶちまけられた麻薬にむしゃぶりつくしかない、みじめで愚かで低俗な女だ。薔薇騎士団? はっ、そんなオママゴトで帝国を牛耳ろうなどとは笑止!」
 クロヴィスの言葉の刃が深く臓腑に抉り込んだ。
 ベアトリーチェはその場でうずくまったまま、硬直してしまった。
 悔しかった。
 でも何も出来なかった。
 帝国を手中に収めれば、神すらも凌駕できる何かが出来るとただ漠然と思っていた。
 甘かった。
 そしてそれ以上にベアトリーチェ・レ・ランカスターという女は弱かった。
 麻薬に肉体と心を蝕まれ、やがて朽ち果てるのが自分にはお似合いなのだ。
 ベアトリーチェは肩を震わせると、声を殺して泣いた。
 その姿を見てクロヴィスはゆっくりと首を左右に振る。
「まったく嘆かわしい限りだ。こんなか弱い娘を鬼に変えてしまうこの世が嘆かわしい」
「……?」
 ベアトリーチェはクロヴィスの言葉に顔を上げる。
「もう泣くな、ベアよ。お前の望み、わしが果たしてやろうぞ」
 クロヴィスの声音に力がこもった。
「……どういうことですか、将軍?」
「聞きたいか? しかしお前は何も知らずにこれからは一人の女として生きたほうがいい。その方がお前のためになる。これは修羅の道だ」
「修羅の道……」
「そうだ。だから世界が変わるその日まで、少しでも心穏やかに暮らしていて欲しい」
 そう言うとクロヴィスはさっとベアトリーチェに右手を差し出した。
 この男はベアトリーチェが友人を殺したことを知ってなお、その罪を許し自由の身になることを望んでいる。
 ああ、なんと自分は浅はかであったのだろう。
 あまりの羞恥に胸が熱くなる。
 ベアトリーチェはその手を握ろうとして……握れなかった。
「将軍、私はあなたの大切なご友人を殺めた罪人(つみびと)なのです。決して許されることではない……」
「そうだな、お前は罪人だ。その事実に変わりはない」
「…………」
「しかしそれはお前だけではない。わしもお前と同じなのだ。抗うことの出来ない運命の導きとはいえ、結果、多くの血を流してきた」
「……将軍?」
 ベアトリーチェは独白するクロヴィスに困惑していた。
 この人もまた私と同じように悩み続けてきたのだ。
「いいか、ベア。お前が世界で一番不幸なヒロインだとは思わないことだ。人は多かれ少なかれ、望まない罪を犯し続けている。それは何故だか分かるか?」
「……分かりません」
「いい、お前の思いをぶつけてみろ。遠慮はするな」
 クロヴィスはじっと真摯な眼差しでベアトリーチェを見据える。
「……それは」
 ベアトリーチェは唇をきゅっと一文字に結んだ。
「この世がおかしいからです。この世をお創りになった神がおかしいからです! 何で、何で、私はこんな惨めな人生を歩んでいるんですか!? 神は私を何故産み落とされたのです!? 運命という大河に翻弄される木の葉のような私を嘲笑うためでしょうか!? 何故……!」
 そう言うとベアトリーチェは子供のように手の平を何度も地面に叩きつけた。
「何故なんですか! こんな……酷い……」
 そう言うと頬を熱い涙が伝った。
 感情の歯止めが利かなくなっている。
「そう、この世は酷い。これは事実だ。そして善良なる全知全能の神はいない。これも事実。私達はだから神になろうと考えた。今から30年以上前の話だ。7人の志ある仲間は手を取り合い、この世に、神に挑戦した。そして夢は破れた。残ったのは取り返しのつかない数々の過ちだけだ」
 そう言うクロヴィスの顔に初めて疲労の色が浮かんだ。いきなり老け込んだようにも見える。
「しかしついにその夢が果たされる日が来る。困難な道ではあるが、亡き友が望んだ理想郷(アガルタ)をわしも見てみたい」
「アガルタ……?」
「そう、アガルタ」
「アガルタ……」
 ベアトリーチェは言葉の意味を噛み締めるように、何度となくつぶやいた。
 夢物語だと思っていた理想郷。
 それを本気で手に入れようと動いている人間達がいる。
「その計画をシュレイダーを中心に動かしているわけですね?」
「その通りだ。そしてひとつ重大なことをお前は忘れている」
 重大なこと? 一体何の事か見当もつかなかった。
「……分かりません。何ですか?」
「シュレイダー様とお呼びしろ。あの方こそ神聖ディバイン帝国の正当なる後継者、シュレイダー・フォン・ディバイン様であられる」
「なっ……」
 俄かには信じがたい話であった。
 ゼノビア様に兄王がいた!?
 しかもよりによって得体の知れない流れ傭兵に過ぎないシュレイダーが!?
 いや、そんな話は聞いたことがない!
「しょ、将軍! それは言ってはなりません! 紛い物の王など、誰も信用しませんよ!? 正統後継者はゼノビア様ただ一人のはず!」
「では、こういう話は聞いたことはあるか? 今からおよそ21年前、始皇帝は神より御子を授かった。しかし帝国を滅ぼす元凶となるという占いの結果を得て、正室であられるルクレッツィア様と共に闇に葬った、と」
「あっ、それは……」
 それは都市伝説の類で宮中に根強く残る噂で知っていた。
 始皇帝の正室はある日突然蒸発してしまった。当然、国中が大騒ぎになった
 何が原因なのか? 誰が犯人なのか? 憶測が憶測を呼び、正室を失ったショックからか、始皇帝は病に伏せてしまった。
「まさか、ルクレッツィア様はご存命なのですか?」
「いや、お亡くなりになった。私が手をかけたのだからな」
「なっ……」
 今日何度目かの絶句。
 ここまで驚きの連続が続くと、生きている心地すらあいまいに感じてくる。
 これは夢ではないのか?
「陛下が占いを信じてルクレッツィア様を胎児とともに葬ろうとしたことは事実だ。陛下も悩んでいた。陛下は数々の国々や人種を一つにまとめあげ、争いのない平和な世界を作り上げようと理想に燃えていた。それだけに、それが叶わぬと分かったときの絶望は相当のものだったと思う。得たものより失ったものの方がはるかに大きかった。いつしか陛下は失うことを恐れるあまり保身に走った。帝国という宝を守ることに固執するようになった」
「それで占い師の世迷言に耳を傾けてしまった?」
「そういうことだ。忠臣たちは陛下の暴挙を諌めようとしたが、怒りを買ってことごとく投獄されてしまった。そして冷酷なる陛下はルクレッツィア様の処刑をカースレーゼに命じた。しかし、出産を間近に控えていたルクレッツィア様は、胎児だけでも助けてくれないかと私に相談を持ちかけてきた。苦渋の決断だったが、私が彼女の処刑を取り持つことになった。ルクレッツィア様はかつての7英雄の一人。かけがえのない我々の仲間だ。そしてわしが愛した女でもあった」
「なんていう……」
 まさかクロヴィスがここまで凄まじい過去を持っていたとは……
 自分がつくづく恥ずかしい。
「私はルクレッツィア様の首をはねた後、遺体から素早く胎児を救出した。間一髪だった」
「胎児は男児だったのですか?」
「ああ。そして驚いたことに双子だった」
「双子?」
 これまた新たな事実であった。
「彼らに不幸な人生を歩ませぬよう、わしは帝国とは縁の薄い遠縁の親族に赤子たちを預けた。帝国に固執すれば彼らは政争の道具にされかねない。しかし神は残酷だった」
「何か起きたのですね?」
「ああ、最悪な形でな。彼らが5つを数えるぐらいのとき、グリフィンで旅行をしていた義父母と共に、墜落して死亡した」
「死亡……遺体は発見されなかったのですか?」
「空中分解だ。高度数千メートルでバラバラになった。しかも海上のため遺体の捜索は難航した。正直グリフィンのパーツや遺品ぐらいしか見つからなかった」
「でも生きていた……」
「ああ、これが神の奇跡なのかもしれない。残酷な神にも仏の心あり。滑稽な話だ」
 クロヴィスがふっと自嘲する。
「しかし私はまだ信じることが出来ません。何故、シュレイダーが皇帝陛下のご子息であると断言できるのです? まさか自称を信じているのではありませんよね?」
「邪気眼だ」
「邪気眼?」
「シュレイダー様は常に左目に眼帯をしておられるだろう? あれは邪気眼の暴走を抑えるための制御具だ。私ははっきりこの目でシュレイダー様の邪気眼を見ているから、見間違えるはずがない」
 そう言われれば確かにシュレイダーは常に眼帯をはめている。しかしベアトリーチェはてっきり戦闘で負った傷が原因だと思っていたのだ。
 邪気眼など普通の人間が持てるものではない。伝説上の生き物であるヴァンパイアなど、その実在すらあやふやな人種でいく例か報告があるだけだ。
 魔人。
 シュレイダーはその名前がぴったり来る不気味な存在であった。
「……それでもう一人はどうなったのでしょうか?」
「分からん。生まれながら邪気眼を持ち、巨大な魔力を有していたシュレイダー様とは異なり、もう一人はまったくと言っていいほど魔力が感じられなかった。多分、シュレイダー様が助かったのは、その魔力によるところが大きかったと思う」
「そうですか……」
 しかしここまで話を聞かされると、そのもう一人もどこかで生きている気がしてならない。もしかしたら、自分が気付かないだけで既にすれ違っているのかも知れない。
「シュレイダー様がその後、どのような過酷な人生を歩まれたのかは分からない。しかし長い時を経てわしと再会したシュレイダー様が最初にこう言った。『あの時は世話になったな』と。そして義父母の名前を真っ先に挙げた。わしは思わず膝を折って平伏したよ」
「シュレイダー様がどういうお方なのかはよく分かりました。ただ、シュレイダー様が実現なさろうと考えているアガルタ。歴史上最強の魔導士と呼ばれたブッフバルト様でも成し得なかったのでしょう? 一体どうやって?」
 ベアトリーチェは興味津々にクロヴィスに尋ねようとしたが、
「それは私から説明してあげるわ、ベア」
 聞きなれた声が背後から聞こえてギクリとした。
 慌てて背後を振り返る。
 果たしてそこにはハリエットがちょこんと立っていた。全く気配すら感じさせなかった……彼女特有の部分トランスフォームによる忍び足だろう。
 それよりもベアトリーチェが腹心として重用していたハリエットまでもがシュレイダーの配下だったとは……もう驚くのはやめた。おそらく薔薇騎士団の一部にもシュレイダーの息がかかった配下がいるに違いない。知らなかったのは、裸の女王様である自分だけ……お笑い種だ。
「あら、あまり驚かないのね?」
 ハリエットが小馬鹿にしたようにおどけてみせる。
「もう今日は驚きすぎて、いまさらこの程度の事実では驚かなくなったわ……」
「それは残念。ベアの驚いた顔も可愛いのに」
「それ、何かの皮肉?」
「本当のことよ。私はベアが好き。この気持ちに嘘偽りはないわ」
 そういうとハリエットはすすっとベアトリーチェに歩み寄る。
 童顔で発育途上の体型なのに、色気たっぷりの妖艶な女性の雰囲気を醸し出している。その不気味な迫力にベアトリーチェは気圧されそうになった。
 実際はベアトリーチェの一つ下なのだ。つまり20歳。
「安心して、私はあなたの味方よ。今まで通りに接してくれて構わないわ。むしろその方が嬉しいかな」
「……いつからシュレイダー様の部下に?」
「部下? 違うわね」
「え……?」
 急に強硬な態度に豹変したハリエットに面食らうベアトリーチェ。
「私はシュレイダー様のパートナー。恋人よ」
 そういうハリエットは自信たっぷりに胸を張る。しかし貧相な胸を張られても……
 ベアトリーチェの視線の先に気付いたのか、ハリエットがむっとする。
「女の価値は胸の大きさで決まるものではないわ。た、確かに、ベアの胸は羨ましかったりするけど……」
 つい本音がポロリ。
 こんな場面でもハリエットはやっぱり可愛い。
 今まで張り詰めていた緊張の糸がふと緩んだのをベアは感じた。
 大丈夫、この子は信用できる。
「まあ、胸の大きさを競ってもむなしいだけよ。そこは同感ね。でも、シュレイダー様が、ねえ?」
 ベアトリーチェは先ほどのシュレイダーとのやり取りを思い出し、恋人だと言い張るハリエットが滑稽に思えた。
 結局、この子もシュレイダーの手駒の一つ。
 都合のいい玩具なのではないか?
「何か言いたそうね……シュレイダー様に何を言われたのか知らないけど、彼が本気で愛を注いでいるのは私だけよ。後はただの遊び」
 ハリエットが苛々した口調でうそぶいた。
「本当にそう思ってるの?」
「にゃにぃいいっ!」
 ベアトリーチェの言葉に激しく反応するハリエット。思わずトランスフォーム時に出る猫語がポロリ。
 内心は彼女も理解しているのだ。
 自分がシュレイダーの欲望のはけ口でしかないことに。
 だが認めたくないのだろう、クロヴィスの前だということを忘れて語気を荒げた。
「重要なことだからもう一度言うわよ。あなたは遊び。真実の愛は私だけにゃ!」
「幻想よ」
「こ、このっ、私に喧嘩売ってるにゃ!?」
 ハリエットは殺気立つと、腰に挿している鞭(ブラッディローズ)に手をかけそうになり、やめた。
「はっ、またあなたお得意の心理戦? そうやってイニシアチブを握ろうというのね?」
 一応平静を装ってみたりするが、ベアトリーチェはハリエットの弱点を完全に掌握した。
 つまるところシュレイダーだ。
 もっとも、向こうも自分の弱点を把握しているので、ようやく対等の席に着いたともいえるだろう。
「……悪いけど、男ってそういう生き物よ。私たちを性の処理道具にしか考えていない。あなたがシュレイダー様が好きなのは分かったけど、彼があなたをどう思っているかは別の次元で考えたほうがいいわ。傷つかないためにも」
「……知ったようなことを。あなたに私とシュレイダー様の何が理解できる……!」
 ハリエットは挑むような視線でベアトリーチェを睨んだ。
 彼女がシュレイダーをそこまで信用している理由は分からない。しかしその思いが凄まじいことは伝わってきた。
 ベアトリーチェは嘆息した。
 痛い目を見るがいいわ、ハティ。可哀想だけど。
「そうね、悪かったわ。あなたはあなたの信じる愛を貫くといいわ」
「ふん、ならばいいわ」
 ハリエットは怒りの矛先を収めると、クロヴィスに向き直った。
「将軍、ベアを借りていくわよ。いいでしょ?」
「ああ、好きにするといい。私は伝えたいことは伝えた。後は彼女の勝手だ」
 そう言うとクロヴィスは自分の机に戻り、どっかりと腰を下ろした。
「いいか、ベア。別にお前が関わらずとも、この世界はいずれ変わる。それまでどうやって過ごすかはお前が決めろ」
「はい、将軍。私のような小娘のために親身にしてくださり感謝しております。後は自分で決めます」
「うむ」
 ベアトリーチェはかっとクロヴィスに向けて敬礼すると、手を引くハリエットに連れられて執務室を後にした。



 ベアトリーチェとハリエットが去って、再び執務室に静寂が訪れた。
 二人のうら若き娘達。
 どちらの過去もある程度把握しているクロヴィスは暗澹たる気持ちになった。
 何故こうなってしまったのか?
 本来享受すべき幸福を彼女達は知らぬまま、ただ地獄のような苦痛に苛まされている。
 表向きは二人とも平静を装っているが、その美しい装いの下にはこの世に対する深い憎しみしかない。
 しかし、彼女達はこの世にあるほんの少しの不条理にすぎない。
 圧倒的におかしい何かがこの世を支配しているのだ。
 一時思案顔で佇むクロヴィスであったが、
『よう、そっちの首尾はどうだ?』
 快活な青年の声によって静寂が断ち切られた。
 いや、実際に執務室に声は届いていない。
 クロヴィスの脳内に誰かが直接思念波を送り込んできているのだ。
『シュレイダー様、ここでの遠距離通信は危険です』
 クロヴィスは思念波を送り込んできた主に警告を促す。
『最高レベルの秘話処理を行っても、うちの優秀な通信兵が見逃しませんぞ?』
 反乱軍にも通信兵はいる。彼らは通信を行うほか、敵無線の傍受なども任務としていた。
 だから秘話処理を行った無線も看破する訓練を受けている。
 しかしシュレイダーはどこ吹く風だ。鼻先で笑うと、
『こいつ(ドラグーン)をかまして、超複雑系時分割多元接続通信を行っている。たどり着くには時間がかかるさ』
 大した問題でないと一蹴した。
 シュレイダーの乗るドラグーンは第4.5世代の最新鋭機。特殊なカスタムで高度な情報処理能力を有しているのかもしれない。
 しかし、
『……あなたの凄さは理解していますが、あまりご自分の力を過信しないほうがいい』
 クロヴィスは尚もシュレイダーをやんわりと諌める。
 これにはシュレイダーはカチンときたのだろう、声音が妙に低くなった。
『おい、親父気取りのつもりか? この死に損ないの老兵め』
 後一言余計なことを言ったら、すぐに皆殺しにするとでも言いたげな迫力だ。
 だが、クロヴィスは動じない。
『そう受け取ってもらっても構いませぬ』
 頑として譲らなかった。
 すると、
『くっくっくっ……』
 面白がるような引きつった声。
『くふぁははははははははっ! 敵わんな! 世界広しといえど、この俺を諭すのは貴様ぐらいだ』
 シュレイダーは愉快そうに声を弾ませる。
 どうやら先ほどの凄みも演技だったようだ。
 と、シュレイダーは話題を変えた。
『で、どうだ? 新しい猫(ベアトリーチェ)を拾ってきたんだが、使えそうか?』
 ペット扱い、か。
 クロヴィスは眉をひそめた。
『今は自信を失いかけていますが、一度信念と誇りを取り戻せば素晴らしい実力を発揮するはずです。まずはシュレイダー様の理想を理解させるのがよろしい』
 人はモノではない。それをずばり指摘すれば今度こそ彼は烈火の如く怒るかもしれない。
 クロヴィスは遠まわしに彼女の尊厳を主張するにとどめた。
 果たしてクロヴィスの意図を理解したのかどうか、
『ふん、それは黒猫(ハティ)がやってくれている。あいつ、ベアをえらく気に入っていたからな。不幸者同士、気が合うんだろうぜ』
 若干的はずれな返答が返ってきた。
 天才という表現でも生ぬるい才覚を持つシュレイダーであるが、彼には人間的何かが大きく欠落している。
 それは彼の過去に原因があるのであろうが、とにかくそれが原動力となってこのプロジェクトを動かしているのだ。
 自分達ですら成しえなかったアガルタ。不完全で心もとない部分はあるが、シュレイダーが希望の光であるのは間違いない。
『何をおっしゃいます。シュレイダー様を慕う全ての者が立場や環境は違えど、不幸者ばかりです。みんな今の人生にウンザリしている。それを変えることが出来るシュレイダー様は我々の希望なのです。救世主(メシア)と呼んでもいい』
 しかしシュレイダーは鬱陶しそうに、
『ジジィ、気色の悪いことを言うな。俺は俺の好きなようにやっているだけだ。この世が気に食わない。だからぶっ潰す。それだけだ』
 そしてさらに付け加えた。
『これはパーティだ。派手に暴れまわりたい奴は参加すればいい。その結果どうなろうと知ったことじゃない。正義の味方など反吐が出る』
 そう吐き捨てた。
『しかし実感はしているでしょう? このプロジェクトはいかにあなたに才能があろうと、一人で成しえるものではないと。味方は一人でも多いほうがいい。だからあなたは私を引き入れたし、ベアトリーチェもスカウトしたと考えていますが?』
 クロヴィスは一番重要な部分なので強調した。
 彼に欠けているもの、それは仲間意識だ。
 友情や愛といってもいい。
 それがすっぽり抜けているから、彼はメシアと呼ぶには首を傾げる存在なのだろう。
 彼にとって他人は使えるか使えないかだけであり、それ以上の感情を持っているようには見えない。
 シュレイダーをあれほど慕っているハリエットに対しても、彼女の献身ぶりに応える気は全くないように見えた。
『……本当にうざいな、貴様は。まずは真っ先に貴様を殺すべきなんだろうな?』
 やはり想像通りの答えが返ってきた。
『人間関係なんてその場限りなんだよ。幻想なんだよ。集まれば効率がよくなることもあるが、それ以上に非効率になることもある。ただそれだけだ』
『分かりました。では私は降りたほうがよろしいのでしょうかね?』
『言っただろう、効率がよくなることがあると。貴様の存在は非効率そのものだが、集団になれば役に立つこともある。だからしぶしぶ使っているだけだ。使えないと俺が判断したら、その場で即斬る。俺に付いて来るということはそういうことだ。覚悟しておくんだな』
『……御意』
 仕方ない、今すぐこのことを理解させるのは難しいようだ。ゆっくり時間をかけていくしかあるまい。
 壊れたメシアではブッフバルトの二の舞だ。
 クロヴィスの返答に満足したのか、シュレイダーは別れの挨拶もなしにぶつりと回線を切った。
 大丈夫なのか、このプロジェクトは?
 アガルタに果たしてたどり着けるのか?
 クロヴィスは再びブッフバルトの肖像画を見やり、深い嘆息と共に肩を落とした。



TO BE CONTINUED……

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